『錆の虚像』
この文章は朝起きて書き、ギャラリーに向かう電車の中で書いている。
錆染めをはじめに世間に出したのは。matohuのコレクションへ提供したときだった。
はじめは遊びでやっていた程度の物を、製品レベルに到達する様に堅牢度等も含め、実験を重ねた。普通には染まらないので当たり前なのだけど、世間に出回っている錆染めはだいたい堅牢度が悪かったりもする。
その頃は錆染めばやりで、いくつかの方々がすでにやっていたから、それをもしやるのであればプリント屋の自分が、その薬品への知識を踏まえて他の人達には出来ない方法でやらなければ意味もない。
コントロールし、突き詰めた結果、はじめに生まれてきたのは、ただ綺麗すぎる茶色のプリントだった。
悩みはなぜ錆を使う必要があるのか。錆びて染める魅力とはなんなのか。何よりその染まる過程から生み出される魅力的な表現を抽出しなければ意味がない。
ショーではテーマに合う一部の技術を選んで使って頂いたが、その後も実は隠れて自分が納得出来るところまで実験をしていた。
最後にその技術を集めて作品を作って、引き出しの中に入れた。
技術的にはそこまで。作品アイデアとしてはいくつか頭の中に残したまま。
その後、やって欲しいという話がなかったわけではないけれど、まったく気が乗らないので仕事にしたことはない。
僕のやっていた方法での最後の結論は別に錆を使う必要はないし、知れば知るほどにそれを使うというのは場合によって何とも野暮だということだ。
ベンガラにしろ、だいたい昔から鉄さびより顔料が作られているわけである。
例えば、NUNOがやった錆釘の布なんかはすごいコンセプチュアルで魅力的な考えから生まれた布だと思う。
でも、そう言った考えでなければ、錆を使って錆っぽく表現するという所に無理が出ているし、それ独特の味のある染めにならないのであれば、普通に染めればいいわけで使う必然性は生まれない。
錆染めの問題点はそもそもの染め付くその原理の幼稚さや経年劣化等々非常に多い。
この当時の実験も実は吉田と2人でやっていた。その後一緒に何百万円のドレスを染めたり、某有名ブランドに布を提供したり、このブランド化をする前に実はちまちまと隠れて物作りをしてもう随分になる。ちまちまはではあるけど。
その話はまた今度として。
今回、メンズをと言う要望が多かったから、それならとまずは、その錆染めが、布に付着するまでの理屈を利用して、錆を使わずに着色してみる。
さんざん、錆を使って錆ていく良さを染め出すということをやったから、錆を使わずとも出来ると言うことにそもそも気付いてはいた。
しかも、錆で常々難しかった、そしていくつかの作品を見る中で、それこそ一番必要で重要だと感じていた、色に奥行きを作るということも出来る。
1点1点、工場の仕事が終わったあと、誰もいない中、まるで鶴の恩返しの様だなと思いながら、夜な夜な1人で染めた。
今回のやり方は当時の技術の理屈を模倣した物だから、逆にもっと朽ち果てていく物のテクスチャーを拾っていくことも可能だと、1人で染めながら思う。ああ、ああすればいいなとか、頭の中がぐるぐる周りながらのそういう時間は物作りをしていて幸せな時間。
今度また、錆びている物をもっとしっかり見よう。朽ち果てている物の美しさをもっとしっかり見ようと思う。
今回の布を見て頂く中で、やはりというか量産出来ないかと声を掛けて頂けたりもしたけれど、またしても何とも断ってしまった。
だってさ、結構気が向いたときに、今日はこうやろうって1人で染めている時間って幸せなんだぜ。量産しなければとなったら、僕の幸せタイムが、すっかり義務になってしまうではないか。
それと今回はあえて1点1点の同一性を排除した。
工場の仕事では、通常では同じ物をいつでも作れるというのが、一番重要だ。
同じ物を作れる状況にすると言うのは簡単な事ではないし、積み上げられてきた技術の蓄積による。
でも、それによって得られなくなった世界もある。
こういう仕事をしていると、時々そういう世界に恋い焦がれる。
技術が未熟だから、再現性がないというのではない。
はじめから、再現性なんかくそくらえだと思いながら作ってみるのも素敵だと信じているのだ。
錆染めだと随分高くなってしまう価格も、技法と手段、それにそんな幸せタイムだから一応。これだけはオーダーではなく、基本的にある物だけ、それを見て頂いて気に入って頂けた物を。だって同じ物にはならないから。そのせいで、手放すのがちょっと寂しかったりもする。勝手な話だけれど。
これは今回のコレクションの中の一番最後に出来た。
今回のギャラリーは陶器を主に取り扱っている空間だ。
あの空間を素敵だと思って、今回無理を言ってお世話になっている。
オーナーはどんな物が好きだろうか。
気に入ってくれる物がいいな。あの空間の中で生きる物がいいなと思った。
陶器のひとつひとつに別の柄が浮かび上がる様なあの感じが僕はすごく好きだ。
だから今回僕はこれを選んだ。過激でそして素朴な方がいい。
朽ち果てていく物の時間を写し取る。
一番はじめは、工場にある錆びたトタン屋根を見上げた。
いつもの見慣れた風景だ。
僕にとって大切な、この時間を留める。
人によって意図して整理された環境から生まれた物が、様々な自然条件の下、ある一定の法則の中、朽ち果てていく。人の意図が自然によって、長い時間を掛けて整理されていく。
大切な準備をしたら、僕は後はただ成り行きに身を任せるだけ。そう言うとき、くだらない意図や見栄は世界をつまらなくする。
ただ、はじめの準備だけしっかりやればいい。
何も考えずに、ただ身を任せて、五感のままに染めていくその時間は、ある種のトリップに似ている。
どこにも留まらない、けっして同じ物は生まれないその一瞬を留めたい。
日常とは常に一期一会であるし、今は今だけである。
同じ物に囲まれていると時にそれを忘れる。
僕は自然の持っている偉大な力にいつも憧れているんだと思う。